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聖書メッセージ  愛の実践

2016.12.27

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*愛の実践 サンノゼで行われた2015年国際ギデオン協会国際大会で、ヒュー・パルマー牧師が語った聖書メッセージです。

 

コリントの信徒への手紙の中で、最も馴染み深い語句が第一コリント13章にあります。これらの真理の与える影響を理解しようとするとき、パウロがコリントの教会に宛てて書いたこれらの箇所とテーマに思いを馳せるとよいでしょう。

愛という言葉は、今日、まとまりのない感情的な意味で使われています。しかし幸いにも、4~7節で、パウロは実用的な方法で愛を説明し、感情ではなく行動面に焦点を当てています。愛が何かを具体的に描写して伝えています。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに心理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

私は何年も前、イギリスの公立学校の宗教のクラスを訪れていたとき、ここの聖書箇所についてすばらしい例証を聞きました。校長は、「愛」と「ジェントルマン」の完全な説明とを比べることで、第一コリント13章から教えられたことを分かち合いました。ジェントルマンはただの男性ではありません。育ちがよく、行儀のよい男性です。校長は、「愛」という言葉を「ジェントルマン」に置き換えるようにと言いました。それで、4節を見ると、彼の言わんとすることを理解しました。「ジェントルマンは寛容であり、ジェントルマンは親切です。また人をねたみません。ジェントルマンは自慢せず、高慢になりません。」13節で、学びが終わります。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望とジェントルマンです。その中で一番すぐれているのはジェントルマンです。」

パウロが書き送っていることの動機を理解するには、コリントの信徒への手紙を読みなおして、この手紙が誰のために書かれたのかを見極めなければなりません。パウロの愛の記述は、単純に彼らに欠けていた性質のリストなのです。

愛は人々に対して寛容です。復讐せずに我慢します。寛容さは、コリントで生き抜くために必要な資質でした。

愛は親切です。また人をねたみません。他人の成功や賜物に対して嫉妬しません。パウロは「しかし、あなたがたの間には嫉妬心があり、それが党派心や分裂を引き起こしている」と記述する必要がありました。

愛は自慢しません。パウロは、コリントの信徒たちの間で自慢し合っていることをとがめました。彼らは、キリスト中心でキリストのからだとして一致しているどころか、自分中心で分裂していました。

愛は高慢になりません。しかし、コリントの信徒たちは高慢でした。パウロは、彼らが得意がっていたことを5回も警告しました。彼らには過度な自己認識がありました。彼らは自分自身を過大評価し、それが人目を引こうとする行動へと駆り立てました。知識は人を高ぶらせます。しかし、愛は人の徳を建てると、パウロは書き送っています。

愛は礼儀に反することをしません。コリントの信徒たちは礼儀に反する危険がありました。パウロは、彼らが女性を誘い込み、恋慕の情を起こした後に結婚を拒むようなことをしないように、書いて警告しなければなりませんでした。このような不適切な行動は、愛に対する誤った考え方から生じたものでした。

愛は自分の利益を求めません。しかし、コリントの信徒たちは求めていました。彼らの関心事は自分の利益だけでした。これは,愛ではありません。愛は、できない理由をつけずに、人のために進んで犠牲を払うことです。

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愛は怒らず、短気ではありません。表面的には優しい笑顔だが、今にも爆発しそうな火山のような心を持つ人を知っているでしょう。彼らと仲良くなることはほとんど不可能です。彼らのために、常に注意深く振舞わなければならないからです。これが聖書の言う愛の描写ではありません。

愛は、人のした悪を思いません。しかし、私たちは誰でも、何かと人のした悪を思っていないでしょうか。「あなたを赦します」と言い、その次の日に、赦した事柄について忘れさせないような言動をとってしまいます。私たちは、自分が受けた傷の数を細かく記憶し、それが私たちが発する「いつも~する」や「決して~ない」といった言葉に表れます。「あなたはいつもあれをする」「あなたはこれを決してしない」というように。

愛は不正を喜びません。しかし、私たちには、不正を喜ぶ文化がないでしょうか。マスメディアはしばしば、私たちのために何か新しい不正に関するニュースを喜んで探してきては発信し、私たちはそれを読んで喜んで読んでいます。人々や教会や団体の悪いところに関する終わる事のない会話をあなたは楽しんでいますか。愛は悪事を行うことを喜ばないで、真理を喜びます。愛は道徳的だからです。

愛はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。ここの箇所は、私と親交のあった一組の夫婦を思い出させます。テリーはアルコール依存症で、私は何回も彼から空になったアルコール瓶を取りあげたことがあります。ある夜、彼の妻から一本の電話を受けました。彼はまた飲酒をしているというので、私は二人に会いに行きました。皆が落ち着きを取り戻してから、彼女はドアにいた私に近寄りました。彼女は目に涙を浮かべ、がっかりした表情で、「ヒュー、彼を信用できない。もうひどい」と私に言いました。私は彼女に言いました。「今は彼を信用できないでしょう。これで信用することは、愛ではありません。」

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誰かに失望させられて、神を信じない人に「もうあのような失敗は二度としませんよね」と言われたり、「男も女も決して信用してはならない」と言われたりしたことがあるでしょう。しかし、愛は信用するのです。当時のギリシャ・ローマ世界とその文化にあっては、愛が公の美徳ではなかったことを理解しなくてはなりません。たしかに慈善はありましたが、愛はありませんでした。

パウロはコリントの信徒たちに、過去に受けた傷があってもいつも愛するように励ましました。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶようにと。パウロはコリントの信徒たちに、過去に受けた傷があってもいつも愛するように励ましました。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶようにと。神は賜物が豊かな人を用いられるわけではなく、できない理由をつけずに他の人を進んで愛する人をお用いになるということを、私は見出しました。

「あなたを愛しています」と言うとき、しばしば「あなたの愛らしさを見つけた」という意味で言っています。神は愛らしくない人も愛しています。御霊の賜物は、異言から癒しに至るまで、未信者でも模倣できるもので、実際に模倣されてきました。この愛の資質は真似できません。この愛が神の教会を建て上げます。この愛が神のかたちと栄光を反映します。パウロの最後の焦点は、最終段落に向いています。8~13節で愛がダイヤモンドのように永続すると書いています。しかし、賜物は永続しません。

愛するという神からの使命

イングランド出身で、新約聖書学者、英国国教会主教のトム・ライトはこの箇所について、「この段落の要点は、神の将来に貢献する事柄のために、教会は今働かなければならないことだ」と言いました。このことは、信仰と希望と愛とによってなされます。コリントで高く評価されていた預言と異言と知識とによってはなされません。これらは将来に向けての手がかりに過ぎません。将来に到達したら、もはや手がかりは必要ありません。しかし愛は、単なる手がかりではありません。これは究極の現実(訳者注:天国)の予型なのです。愛は、単なるクリスチャンの義務ではありません。クリスチャンの使命なのです。

パウロはキリストの再臨に目を向けており、この得意気なコリントの信徒たちに、まだまだこれからだと伝えています。彼は、その日の到来に備えて生きるように勧めました。こういうわけで、信仰と希望と愛とが残ります。預言と異言と知識の限界を示した後、パウロは残されたものに言及しました。それは、信仰と希望と愛です。これらの一つ一つは、他のどの賜物もなしえない形で、永遠の御国へと私たちを結び付けます。

 

私たちの究極のミニストリー

この新しい創造の世界を私たちに賜るためには、私たちを贖ったというのは神の本質ではありません。私たちの価値は賜物や地位や身分や奉仕にではなく、この愛に見出すのです。すべての計画、成功、課題、機会から愛というものを別にしてしまいましたか。あるいは、あなたのミニストリーはまだあなたにとって重要すぎて、愛する時間がありませんか。ミニストリーにおける失敗や傷からあなたを守ることを優先し、愛することができませんか。あなたは、今のことで精一杯で、目標を見失ってしまいましたか。OLYMPUS DIGITAL CAMERA

ただ愛しましょう。

 

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